黒柳徹子さんといえば『徹子の部屋』『ザ・ベストテン』など日本でテレビタレントの先駆けとして
長年にわたり第一線で活躍しておられます。
『徹子の部屋』では同一司会者によるトーク番組の最多放送世界記録保持者として
記録更新中というテレビ放送史を代表する芸能人の一人 です。
また、 累計800万円部を記録し戦後最大のベストセラーとなっている
『窓際のトットちゃん』の著者でのあり、 ユニセフ親善大使としても知られています。
そんな黒柳徹子さんですが私生活はあまり知られておらず、結婚もしていません。
今回は黒柳徹子さんの恋愛について調査してみました!
プロフィール・生い立ち
- 黒柳徹子
- 1933年 (昭和8年) 8月9日生まれ
- 血液型 a型
- 女優・タレント・声優・・司会者・ エッセイスト・ユニセフ親善大使 ・平和運動家
- 相性トットちゃん
- 東京都東京市赤坂区(現在の東京都港区 )乃木坂に生まれ
- 旧東急目蒲線洗足駅に近い 大森区(現在の大田区)北千束町で育つ。
- 父は音楽家で新交響楽団( NHK交響楽団の前身) のコンサートマスター も務めた ヴァイオリニストの 黒柳守綱
- 母はエッセイストの黒柳朝
- 学歴は 尋常小学校→ トモエ学園→ 香蘭女学校 →東京音楽大学声楽科卒業
4人兄弟の長女として誕生し裕福な家庭でお嬢様として何不自由なく育つのですが
幼い頃は窓際でチンドン屋に声をかけたり 机の蓋を何度も開け閉めするなど
落ち着きのないちょっと変わった女の子だったため 先生から迷惑がられてついに
尋常小学1年生の時退学になってしまったそうです。
※後に黒柳さんは自身が発達障害だったことを公表されております 。
発達障害とは身体学習言語行動などのいずれかにおいて発達が遅れた状態である脳機能障害のことを主な症状として対人関係や社会性の障害、コミュニケーションの障害の他、一つの事にこだわりが強すぎたり
集中したりじっとしていられないなどがあるそうです。
こうして小学校退学になってしまった黒柳さんですが
お母さんが黒柳さんに悟られないように
黒柳さんに合う学校を探してトモエ学園に転校させます。
黒柳さんはいきなり登校初日、初めて出会ったトモエ学園の校長先生に前の学校のことや
飼っている犬のこと、家族のことなどを話し続けたそうで最後に着ていた洋服の襟の話をして
ようやく話し終えます。
なんと4時間も話し続けたそうです !
その間、校長先生は話を遮ることもなく最後まで話を聞いてくれて
黒柳さんの話を最後まで聴き終わった後に「君はここの生徒だ」と言ってくれたそうです。
黒柳さんは幼いながらに『自分が皆から疎外されている』と感じていたそうですが
校長先生に何度も「君は本当はいい子なんだよ」と言ってもらった事で
その後もいつも元気づけられてきたそうです。
戦後最大のベストセラーとなった黒柳さんの著書『窓際のトットちゃん』は
トモエ学園の校長先生に捧げられたものなのだそうです 。
マルチな活動を現在も続けている!!
テレビ放送の開始を翌月に控えた1953年昭和28年1月にテレビ女優第一号の一人として
NHK 放送劇団の一員となります。NHK 放送劇団文学座研究所を経て テレビ女優の第1号としてデビューし
1954年 NHKラジオ第一で放送され 自身初の主演となったラジオドラマ『ヤン坊ニン坊トン坊』( 1954年ー1957
年)が開始します。同番組は日本のラジオドラマ史上初めて大人の女性が子供の声を演じた番組でした。
三男のトン坊役で一躍有名になります。以降も『 チロリン村とくるみの木 』
『ブーフーウー 』などに出演し 様々なキャラクターの声を演じます。
子供番組に加えて『 若い季節 』『夢であいましょう』などの人気番組にも出演し
週6、7本の レギュラー番組を抱え多忙を極めるようになり
20代後半にはテレビとラジオのレギュラーが週10本を数え
平均睡眠時間が3時間という日が続き
過労から1ヶ月の入院を余儀なくされ、全てのレギュラー番組を降板することとなります。
1971年から1年間ニューヨークへ留学、演劇やモダン・ダンスを学びます。
※若い頃の黒柳さん凄くキレイ!!
1976年『徹子の部屋』の放送開始を機にテレビでの 女優活動を控えるようになります。
『徹子の部屋』は長寿番組となり『同一の司会者による番組の最多放送回数記録』として
ギネス世界記録に認定されています。
1984年より国際連合傘下のユニセフ(国際連合児童基金)親善大使を務めており
現在でも精力的に活動しています。
1986年には『世界ふしぎ発見』が放送開始こちらも長寿番組になっています。
その他にもパンダの保護活動や様々な平和運動を行っています。
現在まで独身の黒柳徹子 恋愛は?結婚しなかった理由は?
謎の隠し子騒動
私生活は謎が多い黒柳徹子さんですが1998年にはスキャンダル雑誌『噂の眞相』(現在は廃刊)に
「隠し子がいるのではないか」という記事が掲載されたことがあったそうです。
その記事によると黒柳さんには24歳下の末弟がいらっしゃるのですが
この弟さんこそ黒柳さんの隠し子ではないかというのです 。
黒柳さんのお母さんが末弟を出産されたとすると『47歳の超高齢出』という計算になり
現代ならともかく1950年代では不可能です。
『噂の眞相』は当の本人である末弟にも直撃取材しているのですが
「その噂は僕が生まれた時にも流れたらしいですね。
まあ僕はそう(隠し子)じゃないと信じてますけど 」とのこと。
いまだ真偽は不明です 『噂の眞相』ではその父親は
劇作家の飯沢匡(いいざわただす)さんだと書かれています。
黒柳さんと飯沢さんが初めて出会ったのは1954年飯沢さんが脚本を担当した
NHK『 ヤン坊ニン坊トン坊』のオーディションに黒柳さんが参加し
トン坊役に見事合格した時なのですが
末弟が誕生した時期と お二人が出会って関係を深めた時期が一致していることや
黒柳さんが飯沢さんとの出会いを著書『トットひとり』 でとても感動的な物語として綴られていることから
隠し子の父親が飯沢さんだというのです。
記事では飯沢さんが1994年に85歳で他界されるまで40年もの間お二人の関係は続いていたと書かれています。
外国人男性との40年の恋愛
2017年、日本テレビの『一周回って知らない話 黒柳徹子に失礼な10連発SP』は
同局で放送の『24時間テレビ 愛は地球を救う』で黒柳さんが服飾学校を訪れ、学生たちに人生について
語った未公開映像を公開しました。
学生たちに「どういった恋愛をされてきましたか?」と聞かれると
「良い恋愛をしてきました」と答え、これまでの恋愛に満足していることを明かしました。
22-23歳の頃は 何回もお見合いの話もあったほか、好きな男性もいたそうで
「 30歳ぐらいまでにいろいろあった」と語っていますが、その相手が飯沢さんだとは明かしていません。
黒柳さんは著書『トットひとり』で 、お見合い話の内、2、3度お見合いしており、 最後の見合いの相手とは
結婚も考えたそうですがふと「自分の結婚式の帰り道で『あ、この人いい!』みたいな男性に出会っちゃったら
どうしよう と疑問に思ったのがきっかけで私は考え込んでしまった」 と結局は破談になったとのこと。
そして黒柳さんは40年交際した外国人の恋人がいたことを告白し、大きな話題となりました。
黒柳さんの話によると黒柳さんがニューヨークに留学していた38歳の頃
その外国人42歳と知り合われたそうで 彼から「一緒にパリに来てくれないか」 と言われたそうですが
仕事を辞める決断ができなかった黒柳さんは遠距離恋愛をすることに。
帰国後、FAX で連絡を取り合い、忙しい仕事の合間をぬって彼に会いに海外に行く・・(年に1,2度 )
そんな遠距離恋愛は40年間も続き、2012年に彼がスイスで亡くなったことで終焉となったのだそうです。
ちなみに黒柳さんはその後、恋愛らしい恋愛はしていないそうです。
黒柳さんはその相手の名前までは明かされていないのですが
ブルガリア人のピアニスト、アレクシス・ワイセンベルク さんではないかと言われています。
というのも1982年にワイセンベルクさんが来日された際、ワイセンベルクさんは
『徹子の部屋』にゲスト出演されていたほか 、黒柳さんとワイセンベルクさんが
頬を寄せ合い仲睦まじく歩く姿がフォーカスされておりお二人は結婚の噂までされていたのです。
まとめ
様々な恋愛を重ねてきたようですがタイミングが合わないことから結婚までには至らなかったとのこと。
年に1,2度しか会えない外国人男性との遠距離恋愛を40年間も続け、その恋人が亡くなってしまい
結婚の機会を失ってしまったようです。
そして学生たちに「結婚するとかしないとかじゃなく良い恋愛をしてほしい」と語った黒柳さん。
「良い恋愛をすると別れてもその人が死んでもいつまでも生きていくことができる」と自身の経験を振り返り
さらに「私みたいに変なっぽい人を変なっぽい人と思わないで見てくれた」と 過去に自分を愛してくれた人たちが
いたことを伝え学生たちにエールを送りました。
黒柳徹子さんの生まれ育った時代の中では個性的と言える恋愛観かもしれません。
しかし、彼女の生き方に共感する人はとても多いのではないでしょうか?
これからもお元気で活躍してほしいですね!
最近話題のニュースのまとめ




















コメントを残す